News
【PICC会員企業紹介 大久保会長との経営談義】(『王道経営』第2号より)
愛知県名古屋市に本社を構える社員数30人に満たない中小企業がいま、カンボジアに進出し、その熱意でカンボジア政府、国連を動かして、地球環境を保護するための活動を開始しました。元々は、古紙再生を生業としていた興亜商事株式会社です。その三代目代表である奥村雄介さんに、カンボジア進出の苦労話、今後の夢などについて伺いました。
興亜商事株式会社
代表取締役 奥村雄介(おくむら・ゆうすけ)
愛知県春日井市生まれ。大学卒業後、大手会計事務所に入社。
2006年4月、父親である奥村次郎氏(現代表取締役会長)の病気をきっかけに、会計事務所を退職して興亜商事に入社。2013年5月、代表取締役に就任。一般社団法人公益資本主義推進協議会 中部・北陸ブロック長。
――奥村さんが代表を務める興亜商事は、愛知県を拠点にして、カンボジアでも事業展開を進めています。その三代目代表として国内4社、海外2社の事業を取りまとめていらっしゃいますが、まず代表になるまでの道筋を教えていただけますか。
奥村 はい。興亜商事は私の祖父が創業した会社で、それを父が引き継ぎ、私で三代目になります。私自身は最初から興亜商事に勤めたわけではなく、大学を卒業してから大手会計事務所に就職し、中小企業が抱える経営課題の解決のため奔走していました。
――興亜商事の事業内容はどのようなもので、強みはどこにあるのですか。
奥村 昭和24年に創業して以来、古紙の回収・中間処理業をメインにしてきました。現在は古紙だけでなく、他の再生資源や機密文書の処理や廃棄物(ごみ)の収集・中間処理なども手掛けています。
地元では、長年、再生資源の回収・中間処理を行なってきたため、取引は愛知県を中心としています。とにかく先々代の時代から、「思いやり」や「ありがとう」、「元気」、「笑顔」をモットーにして、信用を積み上げてきたような、典型的な地場産業なので、地元の方々から愛されているという自負があります。
また近年では、カンボジアにも進出しており、環境汚染など現地の社会問題を、私たちが持っている技術で解決するべくチャレンジを続けています。
会社の規模は大きくありませんし、社員数もたったの30人弱です。しかし、技術力が高く、一つ一つの仕事を大切に、着実にこなすことによって、お客様からの支持を得ていることが、私たちのいちばんの強みだと認識しています。
海外での事業も私どもの強みになりつつあります。
――地元密着でフットワークも軽い小さな企業ならではの強みですね。一方で、家業ともいえるような小さな会社に入社して苦労したことは何ですか。
奥村 実はそもそも、家業を継ぐ気はありませんでした。そのことは親にも話していて、大学を卒業後は会計事務所に就職しました。それこそ寝る間も惜しんで仕事をするような毎日を送っていたのですが、私が27歳のとき、二代目だった父親が病に倒れたのをきっかけに、興亜商事の三代目を引き継ぐ決意をし、28歳のときに入社しました。
幸いにも、父の病気は回復して再び社長に復帰し、私は父親の補佐役の立場となりました。そして35歳になったときに、父は会長職になり、私が興亜商事の代表取締役となったのです。
入社してすぐに父親の補佐役の立場で、実質的に現場をとりまとめようとしたわけですが、確かに苦労はしました。
たとえば、外回りが終わって会社の前まで戻ってきたら、社員同士が殴り合いのけんかをして、パトカーが出動して大騒ぎになっているということもありました。古紙回収業というのは、そのくらい荒くれ者が大勢いた世界だったのです。もちろん、入れ墨をしている人もいましたし、私自身も社員に胸倉をつかまれて恫喝されることもありました。
私の場合、前職が会計事務所でしたから、ギャップの大きさはなおさらで、非常に驚きました。
――率直に伺いますが、家業を引き継ぐのは嫌だと思いませんでしたか。
奥村 家業を継ぐ気はなかったとはいえ、嫌だという気持ちもまったくなかったのです。話すと少し長くなるのですが、父親の名前は奥村次郎と申しまして、そこから察していただけるように、奥村家の次男でした。日本のファミリービジネスにおける伝統的な考え方として、家督は長男が引き継ぐとされてきましたから、その伝で言えば、私の父は興亜商事の正当な後継者ではなかったのです。それでも、いろいろな経緯があって、家業を引き継ぐことになりました。きっと、家族にすら言えないような苦労も多かったと思います。
しかし、たとえば父の仕事ぶりは、荒くれ社員に対しても、決して名前を呼び捨てにすることはないといったような丁寧で誠実なものでした。お客様のため、社員のために、常に自分ができることのすべてをやりつくすという仕事への向き合い方を見て、父を尊敬していましたから、家業が嫌だとはまったく思わなかったのです。そして、自分が引き継ぐからには、私自身、どれだけ社員とぶつかろうと、正しいことを行ない、この仕事を途中で放り出すようなことだけは、絶対にするまいと心に決めていました。
――奥村さん自身も、社員の皆さんとはかなりぶつかったのですか。
奥村 はい。全社員から嘆願書が出ました。それは、「私のやり方には、とてもついていけない」という内容のもので、当時、社長だった父親に対して出されたものでした。
当時は、正しいことを正しくやることだけが大切だと思っていました。そして、たとえば制服を統一したり、工場内でヘルメット着用を義務づけたり、朝礼をやって挨拶訓練をしたり、車両の中や事務所内にあるエッチな本をすべて処分したりするなどの取り組みをしました。
それによって会社は大きくなってきましたが、正しいことを言えば言うほど反発されました。そして、多くの社員が会社を辞め、残った社員からも嘆願書まで出されたわけです。
ただ、そこで父は私に対して「何をやっているんだ!」と怒ることはしませんでした。逆に従業員に対して、「息子の考え方、想いは基本的に間違っていないので、反対意見ならば、この会社が合っていなかったと思って、辞めてくださって結構です」と言ったのです。
社員のうちどの程度の人が納得してくれたのかはわかりませんが、少なくとも辞めずに働いてくれている従業員は、父の言った言葉の意味を理解してくれたものと考えていますし、私自身の心の支えにもなりました。いま考えると、昔の自分はリーダーとして間違って
いたと思っています。
リーダーの仕事は目的に向かって一致団結し、好ましい結果を出すことであって、正しいことを言うことが仕事ではありません。当時の私は、会社を大きくすること、会社が評価されることが「社員の幸せ」だと勘違いしていましたが、会社は「社員が幸せになる」ためにあるのです。だからこそ、成長し続け、研鑽を積んで、社会に存在価値を認められ続ける集団にならなければならないのだとわかりました。
当時の私には、なぜ会社を成長させなければならないのかという根本に、「社員の幸せのため」という部分が抜けていたのです。
――それで現在の経営理念をつくられたのですね。
奥村 そうです。経営理念は、「興亜商事グループは、社員・家族の「笑顔」と「元気」、そして「成長」を大切に考え、「夢」と「安心」を与えることのできるグループの実現に向け努力します。そのため、私たちは、「ありがとう」と「思いやり」の精神に基づき、お客様の明日への発展のため、そして社会のため、圧倒的な対応力で「安全」「安心」「迅速」、そして「笑顔」と「元気」をお届けします。」というものです。
いちばん大事な社員と家族の笑顔や元気をつくりたい、社員が夢を持ち、家族が安心を得られるようにしたいと考えています。そのためには、会社として強い経営体力と差別化できる「圧倒的な対応力」を持って成長しなければなりません。これが、会社経営者である私の使命、責任だと思っています。
そのために大事だと考えているのが、ありがとうという感謝の気持ちや思いやりの精神を心の根っ子に持って、社会のためになる仕事をすることです。そうすれば、社会にも笑顔と元気を届けることができると思っています。
――なるほど。社風を変える取り組みの一方で、愛知県の地場産業だった興亜商事が、カンボジア進出に踏み切った理由は何ですか。
奥村 きっかけは大久保会長の言葉でした。会長がカンボジアに行ったきっかけが、ごみの山の問題の視察だったことと、その問題を解決するために、私が力を発揮することになれば、それはとても面白いことだと話してくださったこと。そして、「まずは現地に行ってこい」と言われたことで背中を押してもらいました。
私自身、海外には興味があり、それまでにもいろいろな国を周った経験がありましたが、会長のお話を聞いて、恥ずかしがりやで愛らしい笑顔をもらえるカンボジア人が大好きになり、またカンボジアの市場にも魅力を感じ、初めての海外進出先に決めました。
――いきなりカンボジアでビジネスを始めるといっても、どこから手を付ければいいのかわからないと思います。まず何をやったのですか。
奥村 まずは徹底的に行きました。パスポートは増刷し、カンボジアのハンコでいっぱいです。この4年、毎月1回以上カンボジアに行っています。回数だと60回くらいになります。これも大久保会長がよくおっしゃられている、「まず動け、そこから道が拓けていく」という言葉を地で行こうと思ったからです。とにかく現地に行き、そのコミュニティに入っていこうと思ったのです。
そしてまず、日本政府の応援を得ようと考えました。ところが、日本政府はカンボジア政府から、ゴミ処理問題については「そのようなことはしないでください。過去、同じような申し出はありましたが、いずれも失敗に終わっています」と言われたそうです。
日本でも廃棄物業界では古い慣習が残っていますが、それは海外も同じで、カンボジアにはカンボジアの廃棄物業界の古い慣習があるのです。私が行なおうとしていたことは、まさにそこにクサビを打ち込むようなことだと受け取られたようです。
とはいえ、そう簡単に納得できないので、尊敬する先輩にも聞いてみました。すると、同じように「止めておけ、下手をすれば命の危険もあるぞ」と言われました。そのとき思ったのは、「だから誰もこの案件に手を出そうとしないのだな」ということでしたが、逆にチャンスであるのではないかとも感じました。
大企業ならともかく、私どものような中小企業は、フットワークは軽いですし、新しい道を切り拓いていくのが大事なのではないかと考えたのです。
また、何度も通っているあいだに、カンボジアで私の考えに賛同してくださる方も増えてきたので、そういう方たちの期待に応えたいという思いもあり、とにかくやり抜くという気持ちで、取り組んできましたし、これからも取り組んでまいります。
――言葉が通じないなかで人を採用するわけですが、組織をつくっていくうえで、どういう点に苦労しましたか。
奥村 正直なところを申しますと、興亜商事よりもやりやすかったと思います。たとえば創業の思いを社員にストレートに伝えられるからです。なぜこの会社をつくったのか、どういうことを目指しているのかということを、ストレートな気持ちで伝えることができます。それは採用においても教育においても同じです。私が伝えたことを理解してもらい、お互いに共有できるという関係が、カンボジアの人たちとのあいだでは最初から持てたのです。
確かに言葉が通じないので大変だろうという声はあるのですが、実は考えをお互いに共有するという点では、カンボジアの方たちとのコミュニケーションは極めて円滑だったので、組織づくりで苦労したということはまったくといっていいほど実感していません。
――カンボジアといっても広大な土地ですよね。なぜ、スヴァイリエン州を拠点に選んだのでしょうか。
奥村 ASEAN地域においてどのような位置づけになっているのかを考えてみたところ、カンボジアは、ほぼ真ん中に位置しています。ASEAN(メコン)地域を結ぶ経済回廊がミャンマー、タイ、カンボジア、ベトナムという形で直線でつながっており、スヴァイリエン州は、その経済回廊の通り道になっています。
あと、カンボジアは経済がどんどん復興をしている一方で、まだアンダーグラウンドな世界が多いものですから、私たちが「ゴミをなくす」というビジネスを展開していくうえで、プノンペンなどの大都市になると、どうしても分厚い壁に当たってしまうという問題があります。この点、スヴァイリエン州のように、大都市から地理的に離れたところであれば、いろいろ仕事がしやすいという面もありました。
最終処分場(ゴミ山)、ゴミはカンボジアでも大きな社会問題になっている
――日本から進出したとき、スヴァイリエン州の行政の反応はどうでしたか。
奥村 いまでこそ、スヴァイリエン州の州知事や市長とは良い関係を築いていますが、進出したばかりの頃は、「一体、何しにきたんだ」というような冷たい態度をとられました。
そこを突破するために、3つのことを行ないました。まず、こちらはもうスヴァイリエン州でビジネスをすることに決めていましたから、相手から何を言われようとも、ひたすら笑顔でいること。次に、常に私たちはこういうことをやりたいのだというビジョンを語り続けること。そして3つ目は、ワイロを渡さないことです。ワイロは渡さないけれども、一緒になってこの仕事を成功させましょうと言い続けました。
いまでは、「私たちはワイロを払っているのに信じられない」と現地の最終処分業者に言われることもあります。
――どのようなビジョンを相手に伝えたのですか。
奥村 「いまここに置かれているゴミ山を一緒に減らしていきたい。それは決して、お金の支援、技術の支援ではなくて、とにかく一緒にビジネスとして成立させたい。それも、持続的なビジネスとして立ち上げたい」と伝え続けました。それがもしうまくいくなら、この関係をスヴァイリエン州だけでなくカンボジア全土にも広げていきたいし、最終的には世界にも広げていきたいとも。
現在、世界の90%の国々が、同じような問題で苦しんでいます。スヴァイリエン州を一つのきっかけにして、カンボジアのため、ひいては世界のために、私たちと一緒に力を合わせて、ゴミ山をなくすためのプロジェクトを進めていきませんか、と伝えたのです。
もちろん、1回のプレゼンテーションで相手が心を開いてくれるわけはありませんから、何度も何度も誠意を持って相手に伝え、徐々に話を聞いてもらえるようになりました。
――日本ではゴミの分別がしっかり行なわれていますが、カンボジアではまだまだです。そのなかで、どのようなミッションを遂行しようと考えているのですか。
奥村 ゴミのなかで20%から30%はプラスチック資源になります。これを再生する技術を持ち合わせているのが、私どもの強みです。あとは回収の仕組みづくりや、住民や社員、子供たちに対して環境教育もできます。
ゴミは人がつくり出すものです。人がゴミをつくらなければ、ゴミはないのです。最終的には、人がごみをつくらないようにすることが正しい道であり、本当はそれを実現したいのですが、実現には相当の時間を必要としますし、なかなか理解も得られません。そこは、教育が非常に重要で、一定水準の教育レベルがないと、本当の意味で正しい道を理解してもらうのは困難です。
現状では、誰もが目にしている環境が破壊されていく姿を何とかしなければという段階です。ただ、誰もが何とかしなければという気持ちは持っているものの、予算がとれないという現実問題があります。そこでまずは、ゴミのなかから価値があるものをつくっていこうという事業を考えて、取り組んでいるところです。
――まさに王道経営をやっていらっしゃると思います。国の環境を良くしようという点は「社会性」、誰もやっていないから自分がやるんだという点は「独自性」で、奥村さんのお仕事はまさにこの2つを追求していますよね。いずれこれに「経済性」が付いてくると思います。今後のビジョンはどういうものですか。
奥村 実は100年ビジョンを2015年に設定しました。われながら「本当にいいのかな」と思ってしまうような、壮大なビジョンで、「100年後には100カ国で展開する」というものです。これは社員全員の賛同も得たうえで制定したのですが、いまは、それを100年後ではなく、近いうちにやらなければならないと考えるようになり、ビジョンそのものが変わってきています。
国連がSDGs(持続可能な開発目標)というものを設定していますが、その考え方にのっとって、2030年までに私たちは、「ここまではやろう」という新しい目標を設定しました。
興亜商事の社名である「興亜」とは、アジアで興すという意味が込められていましたが、もはやアジアだけではないとも思っています。世界中で地球環境保護が叫ばれているいま、私たちの活動するフィールドはアジア以外の地域にもどんどん広がっていくはずです。アフリカ進出だって間近でしょう。ですから、いまこそ「興亜」という社名を変えるべきときなのではないかと考えており、近々、社名変更を行なう予定です。
――これからのますますの活躍に期待しています。ありがとうございました。
設立:昭和27年1月(創業:昭和24年1月)
資本金:1000万円
業務内容:古紙等、再生資源の回収、圧縮梱包、出荷、
機密文書の処理など
社員数:36名
事業所:千種本社(名古屋市千種区)、
長久手工場(愛知県長久手市)、
日進工場(愛知県日進市)
興亜商事グループは、社員・家族の「笑顔」と「元気」、そして「成長」を大切に考え、「夢」と「安心」を与えることのできるグループの実現に向け努力します。そのため、私たちは、「ありがとう」と「思いやり」の精神に基づき、お客様の明日への発展のため、そして社会のため、圧倒的な対応力で「安全」「安心」「迅速」、そして「笑顔」と「元気」をお届けします。
※ 本記事は、2018年12月に株式会社フォーバルから刊行された『王道経営』第2号に掲載されたものであり、掲載当時の情報となります。